この古墳は、福山市赤坂町にある。
山陽本線の備後赤坂駅を下車し、線路沿いに、福山方面(東方向)へ約100m程行くと、いかにも古墳と言ったふうの
小山がある。
その小山。
その小山を、線路沿いの道から見上げたところ。
東方向に回り込んで、見たところ。
北東から古墳の頂きに向かう道がある。
小さな社があった。
その社と、古墳。
古墳の手前には、古墳の説明板が設置されている。
その説明板。
墳丘の周りには、
円筒埴輪を2重にめぐらせてあったらしい。
でも、この古墳の名前は、なぜ、
イコーカなのだろう。
名前の由来の
説明は無い。
イコーカは、
可行乎と書くらしい。
説明板には、南西に続く丘陵には、4基で構成される池下山古墳群が存在していたとある。
南西には丘陵は無いが、南東には、このような小山が。
後で福山の古墳の地図を見たら、南東のこの小山の事だと思う。
行ってみたが、今は墓場になっており、古墳群の跡らしきものは、見つけられなかった。
上記の説明板にあった宝篋印塔。
墳丘の西側にある。
その宝篋印塔(ホウキョウイントウ)の
説明板。
宝篋印塔の意味は、Goo辞書によると、
以下。
宝篋印経にある陀羅尼を書いて納めた塔。日本ではふつう石塔婆の形式の名称とし、方形の石を、下から基壇・基礎・塔身・笠・相輪と積み上げ、笠の四隅に飾りの突起があるものをいう。のちには供養塔・墓碑塔として建てられた。
ここの宝篋印塔は、足利義明の供養塔
と言う説もあるらしい。
墳丘の上から見た備後赤坂駅。
更に墳丘の南側には、お地蔵様が祀られている。
石鎚神社と石碑がある。
裏から見たところ。